第６話　シイノキでの再会

喪中にも関わらず、生命保険会社から年賀はがきが届き苦笑いをした。バレンタインデーには夫が好んだ黒羊羹を仏壇に供えた。赤い南天の実をメジロがついばみ、雪が解け始める頃には一人の朝にも慣れた。吾亦紅の主人が言った「出会うべくして出会う人」にはまだ巡り会えず、鳥の巣頭の男性のことも忘れかけていた。そんな矢先のことだった。

「先生！エドガー・アラン・ポーに会った事、ありますか！？」

「なに。小説家の話？」

染色デザイン科の女子学生が鼻息も荒く助教授室に傾れ込んできた。

「違いますよ、漫画の登場人物ですよ！」

「ああ、あれね」

漫画に疎い私でも知っている美しい吸血鬼の少年たちの物語だ。女子学生が言うには、その登場人物のように美しい男子学生が染色デザイン科に転入してきたらしい。そこで私に「彼」に会ったことがあるかと尋ねてきたのだ。

「先生のゼミには…！いませんか！？」

ゼミナールの学生の顔を思い浮かべるが、該当する男子学生はいなかった。

「そんな美少年はうちのゼミにはいないわね」

「え、どこのゼミなんだろ〜」

そのエドガー・アラン・ポーは人との関わりを好まず一人で行動しているらしい。けれど提出する課題作品はどれも高く評価されていた。

「それで？そのエドガー・アラン・ポーの名前は知ってるの？」

「えーと、あ、あ…なんだっけ？」

「雨宮！雨宮右京！」

私はその苗字が記憶の引き出しの中にあることを思い出した。

「……雨宮、雨宮右京ねぇ」

あの夜、賑々しく吾亦紅に現れた客の予約者は確か「雨宮」だった。けれど彼は実にフレンドリーで見た目は…その、エドガー・アラン・ポーとは程遠かった。「雨宮なんてどこにでもいるし、私ったら単純ね…」私は記憶の引き出しをそっと閉めた。

「あぁ！今日もいい天気！」

キャンパスの芝生が鮮やかな緑になり、欅の樹が大きく枝を伸ばす五月、私はエドガー・アラン・ポーに出会った。それは意外な人物だった。彼は噂通り誰とも行動を共にせず、シイノキの木陰で一人黙々と果実の皮を剥いていた。遠目にも一目瞭然、彼で間違いない。

「こんにちは」

シイノキの枝にはロープが渡され、洗濯バサミで留められた数枚の布切れが風にはためいていた。彼はそれを見上げながら大きな溜め息を吐いている。おおかた、提出用の布の染色に失敗したのだろう。

「あなたがこれを染めたの？渋くて素敵ね」

芝生に胡座を組んでいた彼は手元の動きを止め、眩しそうに私の顔を見上げた。しばらく目が合ったが興味なさげに黒縁眼鏡のツルを片手で直し、再び小刀で橙の皮を剥き始めた。

「それ、橙よね？いつもそれで染めるの？」

「本当は夏みかんが欲しかったんですが、売り切れていて」

「あら、夏みかんならうちに腐るほどあるわよ、今度取りにいらっしゃい」

菩提樹の林には夫と植えた夏みかんの樹が生えていた。それは悲しいほどにたわわに実り、朝露に輝き黄金色に艶めいている。

「…」

彼は黙々と皮を剥き続け、私は芝生にしゃがみ込んだ。「私と同じ名前だわ」すると小刀を動かす手が止まり「だいだい？」と呟いた。「違うわよ、橙と書いて橙…橙子というの。よろしくね」私が右手を差し出すと、彼は意味がわからないという風に知らんフリをした。

「あなたの名前を教えて？」

「雨宮」

「雨宮なにくん？」

面倒くさそうに顔を上げると「雨宮右京」とボソっと答えた。これは何も覚えていないと思った私は、一つで結んでいた髪を解いた。薄汚れた白衣にサラサラと落ちる黒髪、すると彼は「……！」と驚いた顔をして黒縁眼鏡を外した。確かに、噂になるだけあって美しい顔立ちをしていた。

「エドガー・アラン・ポーね」

「その呼び名はやめて下さい」

私はその美しい顔を凝視して手を差し出した。雨宮右京はキョトンとした表情でその手を見つめた。

「ホテル代、半額4,500円消費税はおまけしてあげる」

「…先生だったんですか」

「私もびっくりだわ、こんな近くにいたなんて」

橙の実がゴロゴロと芝生に転がった。私はその一つを手に取ると、彼に手渡してこう言った。「今度会う時までに、橙と夏みかんで染めた作品を提出して」すると彼は首を上下に振って頷いた。

「金曜日はうちで「放課後ゼミナール」を開いているからいらっしゃい」

「ゼミ？」

「ゼミという名の飲み会よ」

「飲み会」

「染色デザイン以外の学生も来るから賑やかで楽しいわよ」

賑やかと聞いた雨宮右京は眉間に皺を寄せた。

「まぁまぁ、そう言わずに…待っているわ、お酒やつまみは持ち寄りよ？」

「…わかりました」

私は彼の肩を叩いてその場を後にした。そして、手に残った温もりを感じながら「出会うべくして出会う人」と再会したのだと思った。この恋の先に、何があるのかも知らずに…。